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沿革

[2008年10月28日]

古代

弥生時代の有樋式石剣が町の象徴である笠置山(標高288メートル)より出土し、これにより古来より笠置山が人々の自然崇拝の対象になっていたことがわかっています。

中世

奈良時代に入ると、東大寺建立の際に、木津川上流から木材をいかだ状にして流し運ぶ為の重要な津(港)として栄えていました。また、笠置寺の本尊、弥勒大磨崖仏や虚空蔵磨崖仏などは奈良時代中期のものと推測されており、その後、平安の末法思想にともなう弥勒信仰の隆盛で、鎌倉時代まで「笠置詣で」が盛んでした。また多くの修行者や行者の修行の場としても繁栄しましたが、鎌倉末期、後醍醐天皇が笠置山を要塞として行在所を置いたことによって北条幕府との攻防戦の舞台となり、山は焼失し衰えて行きました。

近世

近世に入ると伊賀上野までのびる伊賀街道が伊勢詣での街道として賑わい、笠置は藤堂氏を藩主とする伊勢津藩の所領となります。明治4年(1871)に京都府管下に統合され、明治22年(1889)には笠置村、切山村、有市村、飛鳥路村の四ケ村が合併して、笠置村が誕生しました。明治30年(1897)には関西鉄道伊賀上野から加茂間が開通し、笠置駅が設置されました。翌年には木津川河岸の絶壁を拓いて新道が開通し、他市町村との交流や新人口の流入など近代化が一段と進みます。また明治末年には木津川に笠置を南北に結ぶ橋がかけられました。大正時代には笠置山登山道路が改修され、昭和3年(1928)に笠置山史跡名勝地保存会が発足。昭和7年(1932)に笠置山と山麓および木津川景勝地131.1ヘクタールが国の史跡名勝地として指定され、風光明媚な観光地としての基盤が整いました。昭和9年(1934)、村民一致の強い希望によって町制を施行、笠置町として新たな一歩を踏み出しました。昭和24年(1949)に京都府立自然公園に指定され、日本の古い歴史が息づく、自然に恵まれた町として歩みを進めています。また観光都市としても知られ、年間50万人を超える観光客が訪れています。


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