かさぎ探訪ナビ 伝説いろいろ
[2017年5月10日]
笠置町と柳生の間の道端に、ずっとむかしから「石あて地蔵」というお地蔵様が祀られていました。このお地蔵さまにはこんな話が伝えられています。
そのむかし、元弘の変で笠置山に逃れてきた後醍醐天皇を北条方か追ってきたときのことです。
目の前に刀を突き付けられた村人が、恐怖のあまり「天皇は笠置山です」と教え、さらに「この道を通って行ける」と道案内までしてしまいました。そのため、北条方が攻めてきて、後醍醐天皇は捕えられ、あげく笠置山は焼けてしまいました。
村人は村の衆から「お前のせいだ」と散々責め立てられた上に、悪いことをした罰にと、村人の姿を石に掘ってその地蔵に石を当てようと決めました。
それから長い間、そこを通るときはみんなが石を投げつけたので、いつの間にかお地蔵さまが隠れてしまうほど石が積み重なってしまいました。
しばらくしてから、このお地蔵さまの前の道を広げることになり、お地蔵さまをこの場所から動かす作業が始まりました。積み重なった石を取り除いてみると、そこにお地蔵さまの姿はなく、台座だけが出てきました。
さすがに、村の衆も、道案内をした村人の姿をお地蔵さまにして石を当てることはできなかったのでしょうか。そこにはもともとお地蔵さまはなく、台座だけ掘って石を当てていたのです。
台座だけの石あて地蔵は、広げた道のそばに今もそっとお祀りされています。
天武天皇が、まだ大海人皇子(おおあまのおうじ)と呼ばれていたころのお話です。
ある日、皇子はお供を連れて山背(やましろ)の里(現、京都府南部・山城地区)へ鹿狩りに出かけました。夢中で鹿を追っているうちに、ひとり深い山の中に迷い込み、供とはぐれてしまいました。
皇子は危うく、馬とともに断崖絶壁の岩の上から落ちそうになるところを、「山の神様、お助けください。そうしてくだされば、この大岩に弥勒仏の像を彫りましょう。」と祈願し、窮地を脱することができたそうです。
皇子は、祈願した場所を忘れないために被ってこられた笠をそこに置いて帰り、あくる日に約束どおり弥勒仏を彫ろうと再び山を訪れました。目印に置いた笠を探していると、白鷺があらわれ皇子をその場所まで導きました。
皇子は、大きな断崖絶壁に仏様を掘ろうとしました。ですが、大きな岩に掘るのはなかなか難しく困り果てていたところ、なんと天から天人が舞い降りてきて皇子と見事な弥勒仏を掘りました。
皇子が鹿を追って迷い、白鷺に道案内をされたこの山を鹿鷺山、目印に笠を置いた石を笠置石と称し、それが今の「かさぎ」と言う名になりました。
むかし、笠置山の笠置寺には、解脱上人(げだつしょうにん)と呼ばれる立派なお坊さんがおりました。
解脱上人の徳の高さと言えば、奈良の鹿さえも前足を折って頭を下げたくらいでしたが、上人は位の高い紫の衣は身につけず、生涯、黒染めの衣を身につけておられました。
ある日のこと、お寺の玄関の土が突然盛り上がると、次に大きな穴が開いて南西の角から鬼が飛び出してきました。鬼は上人の前にひざまずき、こう言いました。
「閻魔大王さまが、あなたをお呼びです。あなたの法話をお聞きしたいと申しております。今すぐお越しください。」
「なんと、閻魔大王が!」上人は大変驚きましたが、
「釈迦の教えを広めることが私の使命です。どこへでも参りましょう。」と使いの鬼とともに穴に入っていきました。
その穴は地獄へと続いていました。地獄には鬼が金棒を持って並んでいました。その真ん中のひときわ高い段の上に、閻魔大王が鋭い目つきで座っていました。ですが、上人は恐れることなく釈迦の教えを説き、真理をかたりました。
「久々に心が洗われる話を聞いた。上人、何か望みはないか。」
「お寺に釣鐘をつくりたいと思います。」
「よし、願いを叶えよう。」
閻魔大王は快く、閻浮檀金(えんぶだごん)という、もっとも高貴な金を上人に渡しました。
地獄から戻った上人は、さっそくその金をもとに、東大寺の俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)和尚に釣鐘を造ってもらいました。
その釣鐘は、縁が六つに切り込まれている日本では一つしかない珍しい鐘で、今でも笠置寺の宝として残されています。
京都の笠置は奈良の柳生と隣接しています。むかしから柳生街道と呼ばれる笠置と柳生を結ぶ道は多くの人が行き来していたので、縁組もたくさんありました。
柳生から笠置に入る、ちょうど境の山側に大きな岩がありました。その岩には可愛らしい地蔵さんが彫られていました。お嫁入りの行列も、その地蔵さんの前を通っていました。
ところがその前を通って、嫁に行ったり来たりした者は、つれあいが早くに死んでしまったり、離縁する者が多く、可愛らしいその地蔵さんはいつの頃からか「嫁盗り地蔵」と呼ばれ、花嫁行列はその前を通らなくなりました。
お地蔵さんは、男で独り者ですから、きれいな花嫁さんを見て、やきもちをやかれたのかもしれません。笠置と柳生は目と鼻の先なのに、奈良の狭川の方からぐるりと遠まわりをしなければならないので、それはもう時間もかかるし、花嫁衣裳を着た娘さんにとっても大そうしんどいことでした。
あるとき、一人の元気のいい娘さんが、笠置へ嫁入りすることになりました。皆が「嫁盗り地蔵」の前は通らないで、ぐるりと遠回りしようというときに、「それはぜったい迷信。私は通っていきます。」と言い出しました。「何てこと言うの。縁起でもないことを・・・もしもの事があったらどうするの」
親御さんがびっくりして必死に止めましたが、言い出したら聞く耳持たないなかなかの頑固者。とうとうみんな根負けしてしまいました。
その嫁入り行列がお地蔵さんに近づいた時のこと。いくらなんでも、白い綿ぼうしをかぶったままではお地蔵さんにすぐわかるし、どうしたもんかと、やきもきしていると、親戚の人が、「そうや、お嫁さんかどうか、わからなかったらいいことや」と言い、嫌がるお嫁さんに、嫁入り道具を包んでいた大きな風呂敷をすっぽりかぶせて、男か女かもわからないようにして通りました。
そのおかげかどうかわかりませんが、そのお嫁さんは、夫婦仲よく九十近くまで長生きしましたとさ。
後醍醐天皇と天皇を慕う女官のお話です。
元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し、身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出をした後醍醐天皇は、比叡山に向かうと見せかけて、現、宇治田原町と和束町の間に位置する南山城地域最高峰の鷲峰山(じゅうぶざん)を経て、奈良の東大寺東南院に入りました。しかし東大寺には幕府方に通じる者がいたため東大寺を後にし、ここ笠置山に籠城されました。
笠置山のすぐ側には木津川が流れており、険しい山道はまさに天然の要害であったといいます。兵数では30分の1ほどしかなかった天皇方でしたが、地の利を最大限に活かして幕府軍と戦いました。しかし圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられました。
これを元弘の乱(元弘の変)といいます。
「うかりける 身を秋風に さそはれて 思はぬ山の もみぢをぞ見る」
(うかりける 身を秋風に誘われて 思わぬ山の紅葉をぞ見る)
この歌は、天皇が笠置山に籠城されているときに詠まれた歌です。
「思うことは成らず、つらいと思っている身をば、吹く秋風に誘い出されて、思いもかけぬ、この笠置山の紅葉を見るとは、何という悲しいことであろう。」(高木武『新釈増鏡』修文館)
さて、隣接している南山城村にある「恋志谷神社(こいしだにじんじゃ)」にお祀りされているのは、後醍醐天皇を恋い慕う高位の女官です。幕府と対立し笠置山に身を寄せていた天皇の身を案じて、遠く伊勢から療養の身にも関わらず駆けつけて来られました。しかし、天皇は追手から逃れるために既に笠置山を発った後で、絶望した女官は「だれかを案じ、恋い焦がれ、病に苦しむような辛い思いは、私だけでいい。同じように苦しむ人たちの守り神になりたい」と遺言し、自らの命を絶ってしまわれました。哀れんだ住人が祠を建てお祀りされたのがはじまりだそうです。最後まで「恋しい、恋しい」と言い続けられていたことから、親しみを込めて「恋志谷さん」とよばれるようになりました。
天皇が、山の奥で御身を隠す現実をかみしめながら眺められていた笠置山のもみじ。そんなお方の身を案じ、恋い焦がれていた恋志谷さんもまた、山々の紅葉を眺めては天皇への思いを募らせていたのでしょうか。
もみじ公園では、いつしか「思いを寄せ合う二人がもみじの種を植栽し、育てることによって、愛が育まれる」という伝説が…
そういえば、もみじの種もハート型に見えなくも?
気になる方はお試しください。